牧島かれん トップページ >> 活動報告

神奈川17区衆議院小選挙区 支部長 牧島かれん 活動報告

ジョン・万次郎の魅力
先日、ジョン万次郎の直系曾孫にあたられる中濱武彦先生のご講演をうかがう機会がありました。かつて教科書で見た写真の中の万次郎の面影が中濱先生からも感じられ、地球を7周した万次郎の人生を、映画を見ているかの様に楽しく聞かせて頂きました。
万次郎は鳥島に漂着したいたところをアメリカの船に助けられ渡米。帰国後は通訳としても活躍し、勝海舟、福沢諭吉らと咸臨丸で太平洋を横断しました。現代で言うところの外交官やインテリジェンス・オフィサーとも呼べるかもしれません。

万次郎の幼少期の様子について多くは語られていませんが、器用な青年であったようです。鳥島に漂着したのは14歳の時。あほう鳥の卵と干し肉で五ヶ月間サバイバル生活をしていたのだといいます。そこを、カメの卵を探しに行ったジョン・ハウランド号に助けられました。あと1週間遅れていたら餓死していたかもしれないといいます。

船に救出された万次郎が他の青年とは違っていた所。それは10日程経って体力が戻ってきたら、自主的に船の中の仕事を手伝い始めたことでした。デッキの掃除から皿洗い、洗濯、中でもマストに上ってクジラを見つけるのが得意だったそうです。ホイットニー船長は「指示を受けなくても積極的に仕事をする」「チャレンジ精神があり勇気ある行動をする」「人種のるつぼでの適合性が高い」と評価し、万次郎に船員帽を渡しました。未知なる世界で、万次郎がいかに自分の道を切り拓いていったかがわかります。耳から学んだ英語の一例として「ワラ(water)が水」「ほったいをいじるな(What time is it now?)」などが記録されているらしく、万次郎が必死に環境に馴染もうとしている姿が目に浮かぶようです。

船がハワイに上陸しお別れのはずが、万次郎はアメリカ行きを決意します。船長は万次郎を航海士としての技術を習得する学校へ送り出し、主席で卒業。捕鯨船フランクリン号でその技術を活かしました。船内で新たな船長を選ぶ選挙が行われた時のこと。嵐が来た時に操縦が上手かった事を船員が高く評価し一位に選ばれました。(ただ同率一位が他にもう一人いたので、若かった万次郎は副船長に就任しています。)万次郎が日本に伝えたかったことの中に"Democracy"があったとされていますが、その背景にはこうした自らの体験があったことが容易に想像できます。一方、日本人にうまく馴染んで伝わらなかったとも感じていたようです。

直木賞を受賞した『ジョン万次郎漂流記』を書いた井伏鱒二氏も、萩原得司氏との対談の中で「それから、坂本龍馬なんかの外国に対する見方は、ポルトガルから持ってきたものと異うだろう。アメリカ式だろう。」と分析し、ジョン万次郎との付き合いがもたらした影響ではないかとしています。(『井伏鱒二聞き書き』)新しい時代を築いていくのだと立ち上がった日本の志士たちの胸の内には、伝統的なヨーロッパ方式ではなく新しいアメリカの息吹があったのではないか、という気が私もします。

ペリーを日本に向けていることを知っていたアメリカの人々は、万次郎の帰国のタイミングを「開国してからにした方が良い。うち首になったら大変だから」とアドバイスしたと言います。しかし日本には「外からの情報」が不足していると危機感を持っていた万次郎は開国前に日本に戻って世界の情勢を伝えるという使命を自らに課していました。こうして、万次郎がペリー艦隊来航の意図を伝えたことによって幕府は「無血開国」に踏み切ることができたのです。

波乱万丈の人生を歩んだジョン・万次郎。英語辞書、航海書、物理学入門、カメラ、ミシン、アコーディオンと多くの物を日本に持って帰ってきましたが、何よりも、いかなる境遇にあっても力強く生き抜く精神を伝えてくれたのだと感じています。モットーは"Never Give Up!"だったと、万次郎の息子さんの日記には記されています。

カテゴリ:かれんより 外交・国際関係・拉致問題


月刊 政治かわら版 牧島かれん国政報告
メディア掲載 掲載記事のご紹介

カレンダー

S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< May 2020 >>

カテゴリー

最近のレポート

過去の記事

活動報告内検索